明治29年、白山(現春日井市高蔵寺町)の景重さに嫁さんが来た。
小牧篠岡村字林の瓦屋尾関儀右衛門の一人娘で、「くら」という。
もっとも娘は一人でも、男児ばかり8人も9人も生まれたあとに出来た
始めての娘で、結局しまいまで一人娘であったのに、
「お蔵が建ったで、<くら>とつけやあしゃどうじゃな」
という瓦職人の一言で決まった名であった。
ともかく、明治11年生まれ、数え年19歳の小柄なくらさんは、
顔も見知らぬ代用教員の景重さのもとへ嫁いできた。
日清戦争凱旋兵、八字髭をピンとはねあげ、
一見仁王さんのような顔をした景重さの方は、実をいうと、
こっそり、未来の嫁御の顔見たさに、いやいやそれより小粒と聞いているが、
豆粒のような嫁御ではどうしよう。
俺の鬼瓦のような顔でも来てくれるかしらん。と、心配でたまらず、
入鹿池へ遠足の帰途、15〜16人の生徒を引き連れ、
回り道をして林へ偵察に出かけたのであったが、残念ながら不振に終わっていた。
嫁入りの道のりは、およそ二里半、歩けば3時間の石ころ道を
ガラガラと揺られていく3台の人力車には、
仲人の鈴木釼次(林の隣村、下末の人で遠縁にあたる)、
花嫁、付き添い女(今でいう美容師)というわけであった。
春の日も暮れかかるころ、「嫁入りよう、嫁入りよう」の祝い囃しや、
あかあかと灯るたかばり高張り提灯に迎えられて、
くらは、東春日井郡不二村大字白山の藤江家の戸口をくぐった。
嫁入り道具は、三吊り三荷、その内容は、夜具二流流れと座布団にたんす一竿、
長持ち一本、黒塗り釣り台には盥、半槽、鏡台、お針箱など、
今では知る由もない明治の道具が運ばれた。
どちらかと言えば薄い髪の毛を文金高島田に結い上げ、
金ピカのチラチラかんざし、べっこうの櫛、薄ねずちりめんの花嫁衣装には
御殿模様が金糸、銀糸で縫い取られていた。金糸繻珍の帯をしめ、
真っ白な顔、赤い紅をさした無表情な嫁御を一目見たとき、
八つ違いの婿殿、景重さは小さい貝殻のような嫁御がござったと思ったそうな
(しじみ貝のような小さな嫁御、つぶれそうだが大丈夫かと心配)。
新嫁御の生活が始まった。にいさまは多い。使用人も多く賑やかすぎ、
渡りや通いの瓦職人も常時いる多少猥雑でもあった実家と比べ
何と静かな暮らしが始まったことか。
婿殿のほかには、52歳のやもめの舅千造とその義理の母しゅん、
それに2歳年長の通いの下働き、おかねさと、それだけであった。
それでも景重さが学校へ勤めに出た後、年若い嫁御は新しい嫁入り道具に囲まれ、
煙たい姑ばばさもおらず、多少の開放感さえあってこのうえなく幸せであった。
これはみんな私のもの、新しく整えてもらった道具や生活用具一式が
どれほどうれしかったかと、後年の述懐であった。
当時の農家の嫁で姑がいないのは大きな幸せと言っては憚りがあろうか。
文句を言う人もない代わり、教えてくれる人もいない。
そのころ73、4歳くらいだったか、おしゅんばあさんにお伺いをたてても
「おかねに聞かんしょ」とばかりお節句にどれくらい撞いてよいものか、
新嫁御は山のように撞きあがった餅の始末をおしゅんの里方の水野
まで配ってやっと始末したこともあった。
だれかが屁をひろうものなら、誰じゃ・誰じゃと女中、小僧
から子守まで大騒ぎする在所(実家)と比べ、ここでは景重さが思い切り力んでも、
誰一人、クスンとも言わず、新嫁御はそれがおかしくて一人笑ったそうな。
食事の味付けも何もかも未経験の嫁御が遠慮なく思うまま振る舞うので、
近所の者物は面白くない。
ありもしない悪口をやっかみ半分、林の尾関家へ告げてやったので、
そんな時のためにもと勉学授けたのに手紙一本よこさぬかと、
使いを出して呼び問いただしたところ、
事実無根とわかっておっかさまが胸なでおろす一幕もあったげな。
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