藤江士朗ホームページ
くら一代記と藤江家一族のルーツ
 

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藤江景重当選証書
大正4年10月5日

藤江景重
日露戦争除隊時
第八章 世代交代


明治45年7月、天皇の死によって年号は大正と改元されたが、その4月祖父千造が逝く。 前夜、産の兆しがあったくらを気遣って、千造は子供たちを別棟、西の座敷に寄せ、御伽噺に 気を紛らわせていた。長女むつ16歳が時々産室へ伺いに行くが、難産の気でなかなか生まれない。 そのうち千造は「頭が痛い、健脳丸をとってくれ」と帳箪笥から出させたが、苦しそうな様子に 子供たちはオロオロするばかり。後妻であるばあはお産にかかりきりで手が引けない。夜中に ようよう生まれた子(五女)は、死産だった。ばあが急ぎ西の座敷に来たとき、千造の意識は すでになかった。
一軒の家から二つ棺を出すときは箕の中に横槌を入れ、長い縄紐で引きずっていく習慣だが、 その景色はなんとも哀れを誘い、くらは産襟から手を合わせるばかりであった。折から母屋 と西の座敷との間にある枝垂桜の花びらが、はらはらと散りかかり、てうは悲しみとともに これらの光景を長く忘れることが出来なかった。全甲の成績をもらって帰ろうと、どんなに ご褒美をもらおうと、忙しさと3人目の女の子に目を留めてくれる両親ではなかった。 それどころか、いい気になるなよと、おそがい目付きでぎょろりとにらみつけるおとっつぁま だった。その中で、叶わぬ願いと判ってはいても、上級学校への望みを唯一託せる、やさしい 祖父は、突然逝ってしまった。おおばば(千造の姑)、しゅんは裏の離れにいて、「今日はどういう わけじゃ、朝から暖かい食べ物ばかり呉れると思や、とと様(千造を長年こう呼び慣らした) 死なんしたか」と、さすがに顔が曇った。このとき、おおばば、しゅんは90歳、千造の後を 追うように大正と年号が変わった同年10月、世を去った。子供らを叱るおくうさの声を 聞いていると気持ちがええ、と孫の嫁と暮らした17年間だった。文政6年(1823年)生まれ、 90年の間に数えた年号は天保・弘化・嘉永・安政・万延・文久・元冶・慶応・明治・大正と 11を数えた。稀に見る長寿だった。頭巾を被り、ギョロとした大きな目のおおばばの写真は 第4章に掲載している。亭主、二人の娘、婿をすべて見送っての旅立ちだった。ついでながら 最後の将軍、徳川慶喜は大正2年、77歳で世を去っており、藤江家もまた、景重の時代に入る。
2度の葬式、自身の42歳厄払いの宴(後述)、長女の嫁入り、と相次ぐ大出費、やりくりの内幕 はどうだったろうか。第5章で」述べたように、千造が勤めた村長職その他の村方世話役は、 今と違い名誉職の感が強く、たとえ収入が入ろうと上回る出費を伴うのを常とした。 景重もまた、明治41年玉川村、不二村合併後の高蔵寺村で白山区長をはじめ、村会議員、はては 大正4年東春日井郡郡会議員に当選する。家人は運動員に当選祝いを言われても、寝耳に水。 電話もない田舎なら、嘘のような本当の話で、妻であるくらは、相談など受けるどころか、子沢山 家計のやりくりに、お蚕を飼い、僅かでも現金収入を図らねば、どうにもならぬところへきていた。 江戸時代も半ば以降は、武家小禄階級のみならず、現金収入のない大藩そのものも困窮を極め、 豪商あるいは、札差(いまの銀行)から融資を取り立てては、棒引き(つまり踏み倒し)を繰り返し、 経済が旧体制瓦解の一因であった。わかりやすく簡単にいえば、米を作って売るだけでは、とうてい 生活は成り立たなかった。くらが「おとっつぁまの上手なのは字を書くこと、絵を描くことと 酒を飲むことだけ」と嘆くように、たまに百姓仕事を手伝っても、不器用で下手、そのくせ人一倍 疲れるという風で、却ってありがた迷惑だった。利殖を図る才などあるはずもなかった。
金はいくらでも要る、名誉職にあれば、人より体裁を張らねばならず、たとえ不時の収入があっても、 パーッと遣っていい顔も見せねばならぬ、蓄えはもう、底をついている。 景重はこの重圧に耐えかねて、酒量は上がる、ヨイヨイで帰宅しては、気に食わぬことでくらや 子供らに恐ろしい顔で当たるのであった。こんな話が伝わる。帰宅の遅いおとっつぁまを待ちかねて、 子供らに湯を使わせた後に酔って戻った景重は、破れ鐘の声、へんぺ(蛇)のような目をぎょろり、 沸かしなおせと怒鳴りつける。水汲みは娘3人の役であったが、井戸まで何度も往復する娘らを 見かねた母が「半分落としゃええぞよ」といった小声を耳に挟み、くらを張り倒して、皆どけっと、 雨の中はだしで井戸まで往復した鬼の顔を、みなは忘れられなかった。しかし、たまに機嫌のよい ときは、ランプの下で桑の葉もぎをする子供らの傍らで、南総里見八犬伝を語って聞かせた。 虫や蚊に刺されて手足が痒いのも、夜なべで眠いのも辛抱して、次を聞くのが楽しみだった。 子供らの小さいときには風呂で軍歌もよく出た。「渡るに易き安城の、名は徒のものなるぞ。 敵の撃ちだす弾丸に・・・・」や「ここはお国の何百里・・・・、友は野末の石の下」だった。 また晩酌で機嫌よく調子が上がると、作男、七左衛門をおだてて芝居の真似が始まる。仁木弾正の浄瑠璃 もあった。長男辰夫が若殿に仕立てられ、女の子はヤンヤと喝采した。しかし、こんなことも 大正に入る前からなくなったようで、むっつりと笑顔のない、酒量ばかり増えるおとっつぁまになった。 はやりだした手巻き蓄音機を「藤江様にはぜひ買っていただかねば」と、お世辞たらたらのセールスマン を恐ろしい剣幕で怒鳴りつける一幕もあった。同じ藤江家でも本家、彰家では長女、絢子の婿が早々 と持ち込んで、じゃんじゃんと賑やかであったのに。思うに学業優秀でも上級学校へ進めず、代用教員 をつとめたものの、教え子が師範で免許を取って帰ってくる中、いたたまれずに日露戦争役除隊後、 まもなく職を辞し、以後、月給とは縁のない暮らしが、彰家とも、裏の神戸家(いとこの友一も彰同様 に教師)とも違う逼迫の一因であった。
さてこのあたりで景重一世一代の大盤振る舞い、今では日本全国どこへ行っても見られない、 42歳の厄落としの様子を少し詳細に見ることにしよう。
明治44年1月、写真からちょうど3年前のことになる。
準備
 (1)1週間前、兄彰、従弟友一はじめ隣人、遠縁あわせて8名に集まってもらい、酒肴で もてなして、厄祝いの段取りを告げ、3日間の手伝いを依頼する。なお、すでに1ヶ月前、引き出物、 客の範囲など、上記二人と相談済み。妻に相談は一切なし。
 (2)前々日:買出し、作男のひく大八車で熱田の魚市場へ景重出かける。刺身、煮魚、膾用の大きな 魚のほか、引き出物かご盛り用の籠、海老、鯛、かまぼこなどなど。青物、奈良漬などは大曽根で 買い入れる。酒は大樽(4斗)2本。
 (3)前日、餅つき、第1日目招待客20名、親戚、地主、友人には一升の鏡餅一重ね、 第2日の小作人30名(不確か)には七合の鏡餅を、そのあとは、後餅といって、あんこと黄な粉、 あわせて二臼搗く。全部で二俵半くらいか。お鏡は当日午前中、くるみ膳にのせ風呂敷包みで配る。 近くは子供がお使いすると、おひねりは1銭か、2銭だった。おうつりは、年の実といって、 付け木かマッチ。箱ではなく、軸が12、3本入れてあった。
 (4)前日、白山の調理上手な40歳くらいの男(どこへでも頼まれて行く)が台所棚を組み、 下準備を始める。近所の手伝いも含め、7、8名が計五つのかまどに火を入れずめとなる。煙突 赤くなる。膳、椀の数を整える。
当日
 第1日、比較的上品で、短冊を書いたり下手な謡をうたったり、まず静かにお帰り。 引き出物には立派な籠盛りと折り詰め。
 第2日、飲めや歌えの大騒ぎ、相撲の土俵を前庭に築き、酒が回ると6尺褌ではっけよいと 渋団扇が軍配代わり。引き出物は折り詰め。
 第3日、お手伝いしてくれた人全員への慰労の無礼講。子供たちには毎日、昼に藁づとで作った入れ物 に(納豆の藁づとを想像して下さい)、竹の皮か、はらんで包んで、次のようなご馳走が入っていた。
鰯の丸干し一尾、さつま揚げ1個、蓮根、ごぼう、こんにゃくなど煮しめ、みかん1個で手でつまんで 食べた。
ざっと書き出しただけでもたいした物入りだった。

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