藤江士朗ホームページ
くら一代記と藤江家一族のルーツ
 

・藤江士朗ホームページ
くら一代記
・まえがき
・1.嫁入り
・2.くらの生い立ち
・3.藤江家
・4.おしゅんばあさん
・5.千造
・6.景重の生い立ち
・7.新しい家
・8.世代交代
・愛知県東春日井郡
・名古屋ナビ
・ごあいさつ
・LINKS
第三章 藤江家


1995年(平成7年)1月の阪神大震災の死者は6千人を越えたが、 100年前の1891年(明治24年)10月の濃尾大地震も大災害で 倒壊焼失14万2千戸、死者7千2百余人を数える。

藤江家も大きな被害を受け、母屋も別棟の座敷も土蔵以外すべて倒壊した。

愛知県は、西半分が尾張、東半分は三河であるが、わが白山は尾張の東北部、北から犬山・小牧ときて その次に春日井市がギザギザ瓢箪の頭は美濃の多治見に続く低い山々、 南は庄内川が名古屋市守山区と境して流れ、地形は南西に向けて僅かずつ下がっている。 さて、戸主・千造は生家神戸家のある山寄り東山の地が岩盤で耐震性もよいと判断したのであろうか、 倒壊した家屋を移築することにした。 神戸家当主、又左衛門政寛は千造の兄であり、その妻ことと千造の妻りょうは 姉妹、つまり兄弟、姉妹の縁組で関係が深く、兄の勧めがあったと思われる。 神戸家の山をおよそ300坪ばかり整地して移築したのであった。 この時の家族は姑しゅん、戸主の千造夫妻、長男彰夫妻とその子蔵人、次男景重の7名であった。 しかし、移転の翌年、長男彰の妻が23歳の若さで幼児蔵人をおいて死亡、次いで千造の妻りょうが次男景重 日清戦争に出征中(明治28年)の留守に53歳で亡くなった。相次ぐ不幸に頼るは占い、 結果は先祖代々の家屋敷を見捨てた祟りと出たので、次男景重の婚約を機に長男彰は土蔵だけ残っていた 元の屋敷跡に新しく家を建て本家として戻ったのであった。

彰はすでに二度目の妻、ゆうを迎えており、くら嫁入りの前には長女絢子も生まれて2人の子持ちであった。 ここで耳慣れぬ名前の続出で続柄もさぞ混乱されているであろうと思うので、次ページに系譜を掲げる。 神戸家兄弟には維新まで士分故か本名、俗名2つの名があり、維新後は俗名のみを使っている。 本来ならしゅんおばあさんも千造も本家に共に戻るのが筋だったろうが、 おゆうさは士族の出身で気位高くうまが合わなかったか、千造が生家、神戸家のそばがよかったか、 本当のところはわからないが、としより2人は次男と共に東山に残ることにした。

新しい彰の家は瓦屋根、東山の家は藁葺き、しかし旧地より山寄りのここには神戸系合わせて5軒の家があるだけ、 遙か庄内川まで目を遮るものがなく、青田の続く景観は殊に快いものであったに違いない。 分家前の藤江家の田地は5町歩、白山1とされた梶田家で6町歩であるから、 明治19年の農民階層中辛うじて中位に位置している。

古来争乱の場となることの多かった近畿地方では地主といってもせいぜい10町歩地主が多かったが、 山形県・酒田地方の俚謡「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」でも知られるように 何百町歩いや1千町歩以上の地主さえあった新潟や東北の地主様と比べて何とささやかな所有であったことか。 ただし、藤江家は千造の3代前に3家に分かれており、長子相続を続けていたら 今少し財産は多かったに違いない。

現在白山(愛知県春日井市)に在る藤江家はすべて一つの元から、 つまり千造の3代前(1800年頃)はひとつであったのが3家に分かれたところから始まっている。 日本姓名辞典によれば、「藤江」は三河の野武士が戦国時代の終わり頃、尾張東北部に土着とあり、 白山、藤江家の菩提寺・円福寺の過去帳の記録によれば初代の没年は正徳六年(1716年)とあり、 戦国争乱の世の中が定まらぬ頃、つまり士農不可分どちらにでも才覚次第の時勢に住みついたのであろうか。 後日もう少し調べて見たいが、しゅんの昔語りによればご先祖様は「えんやい、まんだ食うか」 「うん、食う」すると粥に水をダバーンとぶちこんで顔が映るような薄い粥をすすって身上を拵えたそうな。 筆者の家に伝わる古い文書は文久2年(1862年)より遡るものはない。 従って身上増やしの証文は1つも見当たらないが、ない理由の一つは震災による母屋倒壊、 引っ越しともう一つは筆者の祖父・景重が次男だったことによるか。 ともかく庶民の家系など実像については200年も遡るのがやっとである。


くら一代記 藤江士朗ホームページ