国土地理院発行5万分の1図、名古屋北部の東北隅をご覧いただくと、濃尾平野のどんづまり低い丘陵地
のはじまるところに「林」がある。現在の東名小牧ジャンクションから真北へ1キロの位置でその北に
明治村、犬山、日本ライン、美濃加茂とつながっていく。
尾張最古の須恵器窯はこのあたりの篠岡尾北古窯址群ともう一つ猿投山西南麓古窯址群の二つとされており、
古代から良質の陶土を産し、瓦によい土もその当時手近にあったのであろう。
尾関の家の瓦作りがどのような歴史をもつのか知る由もないが、明治11年くら誕生のころ、前述の通り
尾関家は大所帯であった。明治11年といえばその前年、西南戦争の集結で
ようやく士族の不満が鎮められた頃であるが、庶民の日常生活は幕末と大差なく、
がんこな爺様がチョンマゲを頭にのせているのも珍しくなかった。
明治18年くらは尋常小学校に上がった。村で名塚という医者の娘とくらと、女では2人であった。
利発なくらは、帰り道で悪たれどもに「おくらさま、〇〇はどういう風に書くじゃな」と年中いじめられて
今でいう、登校拒否おっかさまに訴えたことも度々であったそうな。ちなみに、明治11年(1878)
生まれの就学人口およそ88万人のうち、尋常4年を終えた者は、20万人、その内高等科まで終えたのは
3万人であった。明治5年の太政官布告(邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん)から13年後
のことである。寺子屋が小学校になっても実状を語る数字は生活の厳しさと共に女子に学問は要らぬ、
の意識がおおかただったことを示すが、おくらさまは、そのころたぶん5つ年長の蔵六にいさまがさらう
英語を背後で聞いていて覚えた、ドック・犬、ラン・走る、を後の思いで話にした。
くら幼時に聞かされた瓦職人の卑猥は小咄は、孫である筆者にも昭和の世にまで語り継がれ、子供を
品良く育てたい母親にとっていつの時代にも歓迎されるものではなかったろう。しかし、今は失われた
土俗の匂い、庶民の性感覚の醸し出す何とも言えぬ懐かしさに郷愁を覚えずにいられないのは一人筆者
のみであろうか。憚られるがいずれ消えゆくもの、一つ二つを紹介してみる。
・若嫁御が裾捲りで用足していたところ、かくしどころへ蟹がシカーッと
食いついてどうやっても離れない。泣く泣く医者殿に見せたところ、
医者殿がどえらい近眼で鼻までひっつけてどれどれとのぞいたげな。
すると蟹のいわく「はなしゃねエ、はなしゃねエ、」
・嫁入りして座敷に座っておった嫁御、黄イない顔でどうも元気がない。
仲人ばばや付き添い女が心配して「どうしなされた。腹でも痛いか、
何ぞ具合の悪いことでもあるか、言ってみなされ」と優しくたずねた
ところ、嫁御は、「そんなら言わせてもらうが、嫁入りの日の朝から
屁がこきたくて、屁がこきたくて辛抱しとります。」
「そんなことならええに、遠慮せんでもこきゃあせ」
「ええかな」
「ええに、ええに」
「そんならごめん」
尻をめくった嫁御のこらえにこらえた屁はブーッブッ、ブーッブッと止まるところ知らず、つむじ風の
ように黄色く吹き上がって婿どのも、仲人ばばさも藁屋根の破風まで吹き上げられて
「嫁御、屁の口止めて下され、止めて下されエー、助けておくれ、助けておくれ!」
尋常4年を終えたくらは、お寺に裁縫を習いに通う。お庫裏さまにかわいがられ、運針から、ぞうきん縫い
じゅばんと順々に反物の一枚も持てば、半月ぐらいはかかろうか。13、4歳からは機織りの稽古が始まる。
綿から糸を紡ぐことから習わなければならない。大勢の家族や、雇い人のお仕着せまでそれは大変であった。
男の多い家でお嬢様のように遊び仕事のようなお針に大手を振って行くではない、とおっかさまは舅に気を
兼ねて裏口から稽古に行かせた。儀右衛門は既に家督を三男、玉三郎(長男夭折、次男來次郎は本家に養子)
に譲っており一人娘と言えども決して蝶よ花よの育て方でなく、むしろ余りもののように肩をすぼめて大きく
なった。しかし、この玉三郎子供時代の思いでを語ったくらのはなし。明日センホク(くちなし)の花を取り
に行くという友達の話に「オレもきっと誘ってくれ」と頼んでおきながら、朝早く友が「玉さまアー」と誘いに
来ると起きたくない玉は、「オラ、行きたにゃー」と寝床を離れられないよな男じゃった〜と。
跡取り玉三郎は融通の利かぬ律儀者、何でも屁理屈が多かった。儀右衛門夫婦は、末子・乙を連れ別宅へ隠居
したが、この乙はとう、おっ母さま43歳の時の子である。厳しい姑に、「お前はお人好しでドアンヌイテ寝て
おらんすで子供ばかり出来る」と悪口いわれ、10余人も生み辛かったが、姑を見送ってのち、安気な顔して
生んでみたいと乳母までつけて思いを遂げた末子であった。成人したのは6人で娘は前述のとおり一人である。
家に居ればがらの悪い職人たちの影響も案じられるとて、娘らしくなってからは母とうの妹とらのもとへ上物
のお針の稽古に通わせられた。とらの夫は小牧で山田眼科を開業しており、4,5歳上のけいという従姉がいた
が、この人はしばらくして上京して文学を志したことがあり、けいを通じて語られた文学の話は何だったろうか
見たこともない東京の話は夢のまた夢か。鴎外がドイツに留学したのはくらが尋常に上がる前年のことであり、
その頃すでに舞姫やうたかたの記が世に出、一葉のたけくらべが発表されたのは、くら18歳の時のことであっ
た。日露戦争に出征した弟の身を案じて読んだ与謝野晶子の<君死に給うことなかれ・・・>は知らぬ人のない
有名な歌であるが、くらと晶子は同い年、大阪堺の羊羹やの娘は尋常4年を終えたあと、堺女学校で補習科を入
れると7年間、17の年まで教育を受けた。19で堺の同人と歌の道に踏み出したー鳳しょうーと、その年高蔵
寺白山の農家へ嫁入ったー尾関くらー。
山田氏の没後、叔母とらは仕立物の師匠をしてひっそりと娘と暮らしたが、のち尾関の本家(次兄來次郎)
離れに引き取られ、大正年間に二人とも亡くなった。
嫁入りの5年前、明治24年10月28日早朝午前6時に襲った濃尾地震は、終生忘れられぬ恐ろしい災害で
倒壊家屋は数知れず、薄墨さくらで有名な根尾谷の大断層が出来たのもこの地震による。尾関家の人々も家の
倒壊はなかったが、繰り返す余震を恐れ、竹やぶに蚊帳を吊り、畳を敷いて、4、5日を過ごした。
この地震は、白山の藤江家ではどうだったか。
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