くらが嫁入って来たとき74歳だったおしゅんばあさんが生まれたのは文政6年(1823年)のことで、
もちろん江戸時代の11代将軍家斉のころ、黒船が来る30年も前だった。この人が長生きだったので会話の
片鱗や歌など、口伝てであるのでそっくりそのままの口調かどうかはわからないが、オリジナル口伝としてお
伝えする。
高蔵寺の隣村・水野からしゅんが嫁入りしてきたのは、14の時と聞いて、おくうさがたずねる。「おばあさ
ま、14で来てすぐ嫁御になりゃあしたか」、「なにいわんす、めくらの姑が真ん中でわしらは両脇にねるじ
ゃがや」、ほんとの嫁御になったのは16か17の時だった。この姑は初産でしゅんの亭主(1人息子)を産
み落としたあと、栄養の取りすぎ、鰻が強すぎて目をわずらった。4年のあいだ目医者で養生し、いよいよ明
日は退院という日の前夜(江戸時代の入院とはどんな、と思うけど)夏のこととて飯櫃が饐えないように天井
からぶらさげてあったところへ、灯もない暗がりで目の辺りをぶちつけてしまい又病がぶりかえし、あと3年
併せて7年もの養生をしたそうな。
今小牧空港のあるあたり、豊場の目医者に7年間つきそっていたのはおさ
のという女中で、若い身空を嫁入りもせず生家のためにつくしたおさのを憐れんでしゅんの姑がうたった歌は
おさのぼぼの毛7里の渡し、早く乗らぬと舟が出る」・・・・。そうして失明に至ったのであるが、姑はある
とき24歳で未亡人となった嫁、おしゅん哀れんでか、空飛ぶ雁を見て、「おしゅんさ、見みささんしょ、め
おとじゃそな」とのたもうたげな。目は見えなくても心眼で見えたのであろうか。
おしゅんの記憶に水野の代官所へ預り証なしで金を預け、それきりになったとか、蔵にぎっしり桶何杯もの
金が貯えてあったとか、盲の後家さんと大酒のみの息子とでどうしてそんなに金があったものやら。藤江家の
神話時代としておこう。この息子つまりしゅんの亭主は田植えの場にまで、酒をもって行って振る舞うくらい
の酒好きで、それが為に2女1男を設けたあと胃癌で早死にした。
24歳で若後家となったしゅんは3人の子
を連れ20日も1月も水野へ里帰りした。彰、景重の母おりょうは次女であるが、水野のじっさまが早う帰れ
と言いつつも孫不憫で永逗留をさせた思いでを語っている。
長女ことが、神戸又左衛門・政寛に嫁ぎ、(男児は早世)次女りょうに養子太左衛門・千造を迎えたのは
りょう21歳の時である。女の厄年19歳までには縁を決めることが多い当時としては遅く、しかも3つ年上
の姉さん女房であった。
千造18歳の婚姻ならば或いは約束は早く、成年に達するのを待ったのかもしれない。
おしゅんばあさんの最後(没年89歳)を見取ったのは孫の嫁であるくらばあさんであった。
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