千造、りょう夫婦は4人の子に恵まれた。御一新までに2子、明治に2子、男女2人づつだったが、長女ま
あは夭折し、すぐ長男、彰(幼名桑造または鍬造)が次いで3年おきに景重(幼名鶴吉)、みいが生まれる。
子供達について知りうる最も古い記録は戸籍と過去帳及び次に掲げる卒業証書であるが、残された景重とみい
の3枚の卒業証書から見ることにしよう。記載の年齢はすべて満で数えられている。明治15年当時、義務教
育の制度が幾つもの点で今と違い、また次々と変革されている。興深いのでおおざっぱな差を箇条書にしてみ
ると、
1.明治6年〜14年 ・下等小学 最初8、7級を履修(1年生)、
次いで6級(2年生)、以後1年に
2級づつ進み、4年間で1級まで
・上等小学2年〜4年
明治15年〜20年・小学初等科4年・小学高等科2年〜4年
明治21年から ・尋常小学校4年・高等小学校2年〜4年
明治41年から ・尋常小学校6年・高等小学校2年〜3年
2.始業と終業時期 9月始業、6月終業
3.進級 今のように入りさえすれば卒業出来る訳ではなく、
小学校から進級(又は卒業)テストがあった。結果により及第
と落第とがある。優秀者は飛び越し(夏目漱石)、入学も数え
8歳が決まりでも遅いもの、早い者さまざまで、現に景重も
みいも入学は9歳の時だった。
4.就学率 義務教育制度が敷かれても、あるいは就学しても誰もが
卒業したわけではない。就学率・通学率・卒業率は当然違うが一応、
就学率は明治5年で25%、明治12年で41%なので、くらも
みいも女性エリートか。
制度のことは以上のようだが、次に平民とは何ぞや。身分によって入学規制のあった学校は唯一学習院だけ
で、日本の学校制度はアメリカを見習って身分制度のない平等性の
上に立てられた筈であるのに、士族・平民そしておそらくは新平民
の記載があったと思われる。制度を整えても人の意識はなかなか変
わらなかったであろう。千造の生家は尾張藩家老であった犬山城主
成瀬家の山方同心といって、山林見回りの下級士分の家で、持山は
約10町歩あった。また、みいは、子守の背中に負われていて「こ
こもみいとこの田、あそこもみいとこの田」と言ったそうであるが、
幼児の語録からも狭い農村で一生を過ごした人々の意識が窺われる。
そのみいは、悲しいことに過去帳から察すると、2枚目の卒業証書を貰って間もなく小学3年で亡くなって
いる。この時景重は14歳、高等科1年で、彰は17歳でおそらく愛知県師範学校に進んでいたかと思われる
在学を裏付ける封筒のみ残っている(1月25日名古屋出・26日春日井高蔵寺着)。
ここで、余談を一つ。先に彰の幼名を鍬造と書いたが、夏目漱石は彰と同じ慶応3年の生まれ、漱石誕生の
1月5日(旧暦)は庚申の日に当たり、しかも申の刻だったという。昔からの迷信で庚申の日に生まれた男子
は長じて大泥棒になるといい、難を避けるのには金のつく字か金偏の名を付けると金取りにならないと言い、
釜、鍋、鎌、鉄、金、銀、鍬、鋤などなどの字を用いた。夏目金之助と同列に論じるのも恐れ多いが、藤江鍬
造の誕生日(6月10日)同じ事情であったと、てう伯母に聞く。
明治18年、16歳、高等小学校で優秀な成績を収めた景重は学業を終える。その前年には文部大臣から全
国小学校生徒中、弐等賞(2等賞)で表彰状を貰った。和紙に毛筆手書きの立派なもので、景重の次男、久馬
夫は額装して名古屋の自宅に飾っていたが惜しくも昭和20年の空襲で焼失した。優秀だった次男をなぜ父・
千造は進学させなかったか。名古屋の師範に進んだ長男、彰が春に目覚め、遊里の味を覚えて手を焼いたから
だといわれる。(彰は最初の妻すみを迎える前年21歳の時にも、さる未亡人との間に一女を設け、他家へ養
女に出された戸籍記載があり、千造の苦衷が察せられる。)
あおりをくったのが弟の景重、血気盛んな身で毎日、作男のかける人糞の匂いをかいで一生送るも不甲斐な
いと一策を案じた。
おしゅんばんさんは、時々宮参りといって、熱田神宮へ人力車でおまいりしたが、あるとき、景重は、ばあ
さんを誘って宮参りにでかけ、掏摸に会うといけないとしゅんの財布をまんまと懐へ入れ、ばあさんを撤いて
一人になり、かねて目当ての黒檀の文机を買い求めて帰って来た。悪びれもせず帰って来た孫の姿に、しゅん
はあっけに取られた一幕があった。これに味をしめたのが大きな誘因の一つであったのかも知れないが、つい
にしゅんの有り金をかっさらって家出決行、上京した。当時は自動車はおろか鉄道もまだない。
宮(熱田)まで人力車で、そこから四日市まで船、四日市で東京行の汽船に乗り換える。そして上京し、隣
村坂下の知人で法律を勉強中であった鈴木実太郎氏を頼って寄寓、おそらく法律学校の夜学にでも通ったので
あろう。しかし、そのうち手持ちの金は底をついて来る。苦学、独行の覚悟はなかったと見え、坊ンボンの
「カネオクレ」の電報を受け取った郷里では待ってました、とばかり伯父、神戸又左衛門正寛が有無をいわさ
ず連れ戻しに上京したのであった。これで夢は一巻のおわり。
てう伯母の語る景重冒険旅行の顛末をご紹介したが、8年間の初等教育を終えた彼は家でブラブラしていた
わけではない。明治18年3月から松本小学校に授業生心得(見習教員か)として月俸2円で就職している。
優等生ではあり、村長、書記役を始め名誉職を務める父親千造の声がかかったに違いないが、上級校へ行けな
かったのが経済事情でないだけに、無念の胸のうちが察せられる。こうして、いわゆる代用教員の6年間を送
るが、そのうち兵役年齢がやってくる。満20歳に達した壮丁には3年間の軍務が課せられた。
景重の行く手はどうなりますやら、というと紙芝居の口上のようであるが、まずは、掲出の文書をご覧いた
だきたい。伊藤家に養子として景重を呉れてやったのではない。明治5年の徴兵令によって国民みんな皆兵と
なり、士族軍隊から農村の2、3男中心軍隊となる。免除された者は上級学校卒業者、家督相続者及び、
270円(当時、米一石=4円80銭)の代人料を払える者だけ、その結果いたるところ養子縁組が流行した
景重の移籍もこの目的に他ならなかったが、どういうわけか明治23年暮れ、満20歳で名古屋第3師団に入
隊し、3年間の兵役生活を送った。凛々しい明治の兵服姿をご覧いただきたい。千造さの息子2人、背は高く
男振りよし、花がさいたようじゃ、と近所は噂したそうだ。そうして陸軍輜重兵上等兵で除隊した。なお、軍
隊でも品行方正、学術熟達で大隊長から善行証書を貰っている。
それにしても、小学校の優等のご褒美から軍隊にいたるまで、数多い賞状が残されているが、千造がきちんと
保存しておいたものか。
まもなく、近代日本が始めて体験する外国戦、日清戦争が始まり、明治27年9月、景重は名古屋第3師団
に所属して広島から出征、輜重兵軍曹、小隊長となる。明治27年、8年戦役とはいうものの、ほぼ1年で日
本の勝利で終わった。このときの外国経験が景重にとっては唯一のもの、分捕り品であろう、赤いだんつうや
象牙の箸が昭和の終戦のころまであった。馬に乗って武器、糧食輸送を指揮する輜重兵軍曹殿は尻の皮が剥け
て、赤裸になったそうである。帰って来て勲八等と金35円を貰った。
これで出だしに戻り、坂下尋常高等小学校で再び雇教員となって高等科を受け持ち、縁談の相手、
小牧・林村の「くらさ」を偵察に行くくだりとなる。
おさらいすると、この間景重の家族には次のような出来事があった。明治22年兄、彰の結婚、明治24年
地震による家屋倒壊、25年東山(千造生家、神戸家のそば)へ、古家の移築移転、26年兄嫁の死、27年
兄の再婚、28年母りょうの死(出征中)こうして見ると藤江家激動の時代とも言える。既述したとおり、死
が重なったこともあり、次男の結婚を期に長男、彰はもとの屋敷跡に新築して移り、景重家は今風に言えばジ
ジ、大ババつきで分家となった。短期間に家屋敷を2軒建て得た財力は、まだ持ちこたえていたろ見えるが、
金銭出入りについての記録は何も残されていない。田畑は6町歩(1説では5町歩)あって、梶田家とともに
白山では大地主であったが、これも小さな世界の中での話、井の中の蛙で威張っていたのである。分家により
長男彰家に2.5町歩、次男に2町歩、隠居二人の取り分が1.5町歩、合わせれば景重家の方が多かった。
なお、藤江の本家はあくまで彰家であるが、1716年(正徳6年)没の初代以来、本家墓碑に刻まれた歴代
ご先祖様の戒名の中に千造の名のみ抜けている。8代当主ではあったが養子、千造は景重家とともに眠ったの
である。
この章の資料はまだまだ多く残されていて取捨に迷ったし、挿入も煩雑かとも思ったが、百年前に生きてい
た肉親の姿を更に生き生き伝えたい気持ちで入れたので、歴史を思い出しながらご覧いただければ幸いだ。
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