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このようにして2人の新生活は、ちょうど今から百年前、1896年に始まった。くら、瓦屋から農家
へ、経験はなかったが大部分は小作人が、また自家米は通いの作男が2人いて耕作してくれ、新嫁御は野良
仕事をしないでもよかった。
翌年春4月、長女むつが誕生する。このあと次々きっちり2年3ヶ月おきに、つまり乳を止めるころ次を
懐胎というわけで、まず娘が続いて3人、そのあと待望の長男と、10年のうちに4人の子持ちとなった。
子供も増えたが、この時期家族はもう1人増えた。明治32年千造の後添いとして入った千代である。
ばあさんが2人となったので、子供達にしゅんは「おおばば」、千代は「ばあ」と呼ばれた。ばあと呼ばれ
ても千代45歳、くらの子育てになくてはならない人になった。戸籍上は姑でも、財布の紐は景重が、勝手
向きの権限はくらにあり、千造につかえ、家事全般を助け、くらとよく折り合って、出来た人であった。
くらとは27年間を共にした。
明治27、8年は日清戦争に、それから10年後の37、8年には日露戦争と景重は出征するのだが、こ
の10年で世紀は20世紀へと移り変わる。10年間で所帯盛りとなる新しい家の話は変化が大きかっただ
ろうか。
父千造の体験した御一新の変革は意識のうえで大きかったが景重、くらの最初の10年、暮らしはどうだ
ったのだろう。電気はおろか、ランプもまだだった。あんどんの中に灯った油芯の光では、さぞやばけもの
話も恐ろしかったことだろう。家の外での夜中の小用も子供には恐ろしい。キツネに騙されていっぴ一杯機
嫌の村人が朝まで同じところをクルクル回って歩き、家に帰れなかった話をくらばあさんのあの口調で再現
したいものだ。
煙突のついた竈でなく、土間に土でかためた和くどを朝、吹きつけていると、冬なんか、狸が寒いので後
ろに座っておったりした。水は外の井戸からつるべで汲んで台所のはんどや風呂桶に汲み入れる。日々の米
は台所の隅の台柄つきの臼でつく。左右の足を上手にバランスよく踏むのはなかなかの大仕事だった。1斗
ついても所帯盛りになると4、5日だったか。米を始めほとんどの食物は漬物、梅干は言うに及ばず味噌、
醤油に至るまで自家製、いや着るものでさえ足袋にいたるまで、縫うは無論のこと、布も自家で織ったので
ある。足袋は裏底に木綿布重ねてサシコ縫いする。少し大きくなったら、女の子の手伝い仕事であったが、
えらく力が要った。井上竹夫氏(むつ長男)作図を見ていただくと、玄関土間の右手に物置があるが、くら
の機(ハタ)はここにおいてあり、夜なべ仕事は無論のこと、冬も朝から夜まで、着物の裾をはだけてトン
カラ、トンカラ。袷から綿入れ、夜具迄、年寄りから赤ん坊まで、大家族に織って、縫って、汚れれば洗い
張り、繕いとたとえ耕作はしないでも仕事は果てしなくあった。
明治庶民の暮らしはこう見ると江戸時代と大差はなかったが、景重家では大正にかけて追い追い改良され
台所は他家より便利に煙突のついた煉瓦造りのかまどになったし、明治30年以降はランプになった。茅葺
き屋根も明治40年ころには瓦葺きとなる。白山に百戸以上あっても新聞を取るのは15軒ほど、配達の婆
さん(バアサンなどといっても30くらいだろうに)が鳥居松から早朝肩にかけて配った。景重家は東京朝
日、彰家は万朝報であった。田舎にしてはモダンだったのが、次女てう伯母の思い出に残る景重家であった。
さて、長女むつの2年後、明治32年に次女みちが、ついで又2年後の34年には3女てふが生まれたの
だが、このころ小作と争議が起きて、くらは御新造さまだけしている訳にはいかなくなった。くら大奮闘時
代の始まりだ。耕作は作男、七左サとほか1人、通い女も3人手伝ったが小作と年貢の折り合いがつかづ、
返してよこせば、今までの自家分だけより荷は重くなっても、せずに済ませられる事ではなかった。千造は
そのころ不二村村長(白山のある村)を務めており、景重は教員に出、もとより農作業を我がことにしなか
った人、くらの肩に背負うほかはなかった。
「春日井の歴史物語」によれば、高蔵寺村大正11年、小作地の割合は54.6%、つまり耕地の半分以上
が小作に出されている。また春日井市のある集落100戸のうち、地主(2町歩以上)10戸、自作農(1
町歩まで)25戸、自作農(5反まで)30戸、小作35戸として比率例を挙げているが、てうの記憶では
白山、田畑併せて100町歩、120戸のうち、地主15戸、自作農10戸、残り100戸が小作であった
どの村でも小作半数以上が食うや食わずの暮らしと思われる。が、景重家程度の地主では主人の現金収入が
多少あっても、小作が思うほどの裕福さはなかった。尾張藩時代から年貢負担は他藩に比べきつくはなかっ
たが、小作人は小作人で5割の年貢負担に見合う収穫の良い上田のみを望んだり、あるいは、条件のよいほ
かの仕事や北海道への移住、年貢条件の変更交渉など、地主との攻防は絶えなかった。一般には日露戦争以
後の小作争議が有名で全国で組織的、継続的になったと言われているが、小さな交渉はそれ以前から日常的
にあったのだろう。
年貢米を納めるときの卑屈とも見える態度、土間に入るに草履を脱いではだしになり、「ごみゃーす」と
と腰をかがめた光景が3女てうの記憶にあり、働きもせず座して俵を受け取る地主に対する小作の腹のうち
を思えば、第2次大戦後の農地解放は道理で考えれば、額に汗して働く者の当然の権利主張といえる。
農家の嫁の最大の息抜きは里帰り、俗に在所帰りは昼前に、舅帰りは日の暮れにと言われたが、くらに姑
の苦労はなくても、年に5、6回の里帰りは母に甘えられる嬉しい日。駄賃払いで雇った男衆に担わせた天
秤棒の片方の幼子が、もう片方には着替えやむつき、土産物をのせる。白山から小1時間で坂下、ここの菓
子屋で買い物をして篠岡村林(小牧市)まで、道のりの半分は山路である。立て石というところ(今のどこ
だろう)で一息入れて、2里半(10キロ)の道路は子連れの道中では3時間では無理だった。
くらの母とうは12人の子を生み、うち、男子6人とくらが成人したことは第1章でお話しした。そのこ
ろ両親と弟、乙は隠居所に暮らし、文秀堂と名付けたタバコ屋と、乙は農作業をしていた。日露戦争の始ま
るころ、乙は帰途の天秤棒を肩に、姉を送ったが、途中「姉さを送るのも今日が最後じゃ、近々、台湾守備
に行く」と告げた日もあった。
母とうはくらよりも背も高く、お丸さんという器量善しの親から生まれたのが自慢で、「皆がハスベのお
っ母にゃ、もったいないといわよった。」と、くらに話したそうな。ハスベとは夫、儀右エ門(くらの父)
の頭にあった疱瘡の傷痕のこと。また、とうは歌舞伎が好きで、隠居してからは小牧に芝居がかかるとチョ
ク、チョク出掛け、くらは留守に行き会わせると寂しい思いをしたものだった。
そう言えば、くらも娘たちを前に、お前らにはわしほどの器量は一人もおらんと、自慢したが、そのとき
例の鼻をフン、フンと鳴らしたかどうか。自分の生んだ娘をほめることは絶対になく、それどころか、至極
口が悪かった。顔生地の悪いみちは、「お前の鼻は惣三郎さのくどの様じゃ」と始終いわれたが、自家製の
惣三郎さの竈は背が低くて黒く、ポンと大きな穴が鼻の穴のように2つ空いているので、評したもの。てふ
は顔がどん円く、ほお頸が短く「おかぶつじゃ、かねのさじゃ」と評されたが、古手屋(古着屋)のバアサ
ン、かねのさに似ていたものか。むつの色黒、赤ん坊てふの痣についての、くらの母心は項を改めてご紹介
する。
明治37年1月、待望の男子が出生、えとにちなんで辰夫と命名される。家中が大喜びであった。家の存
続が何より先行すれば、家督相続者は誕生から待遇まで他の者とは違っていたのは大名家も百姓も同じこと
日露戦争から勝ち戦で1年半後除隊した景重は、辰夫に洋服を買って来た。海軍の制服に将校の襷、サーベ
ルやラッパ、果ては舶来の馬のおもちゃまで手に持たせた写真があった(現存せず)。また、景重家の家風
は男尊女卑が彰家に比べて強かった。女子にはきつく、(他家へ嫁入る者には尚のこと)男子には甘かった
ように、冷飯組の3女てふには思われた。当時の子供の歌:「裏の小道で赤ん坊みつけた。男の子なら拾い
あげよ。女の子なら踏み潰せ。女の子じゃとてそう言うな。おらん在所へやって見よ。あるもの食わせて遊
ばせて、合間にゃ小銭も使わせて、人の落とした機じね拾って結んで機織って、大きなったら縁につけよ」
この間、明治33年、次女みちが満1歳の夏、中央線が名古屋から多治見まで開通する。明治40年、勝
川駅の乗降客は平均146名だった。また開業時の高蔵寺・名古屋間の3等運賃は23銭であるが、参考ま
でにそれから約20年後の大正10年、兄、藤江彰の教員給料は月額34円の公式記録あり、すると景重の
それは推察、当時20円以内だろう。
明治37年11月、景重は召集を受け、陸軍輜重兵軍曹補充兵となる。当時は坂下尋常高等小学校準訓導
(いわゆる代用教員)だったので、職員一同から防寒用としてシャツ1領をもらっているが、毛筆手書きの
立派な贈呈状が残っている。なおこの慰労金は10円が支給されており、35年には2円、36年度は1円
であるので軍務に対する褒賞の意があると、察せられる。35歳の景重は、戦地に赴くことはなかった。く
らは子供をおぶい、時々面会にいったが、鎮台豆と言って甘納豆の土産が、子供達には楽しみだった。
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