孫てうの目に映った千造じっさまは子供達をよく可愛がり時には諭し穏やかで優しい申し分のない好々爺で
あったが、若い日の千造とその時代に少し視点を移してみよう。
明治維新は1868年、千造24歳ですでに2人の子持ちである。10代後半から30歳にかけて青年千造の
通り過ぎた道は御一新とそれに続く社会の大変動、変革の時代で、旧体制下に人となり、新時代に一家を率い
て舵取した彼の足跡を、残された僅かな資料(証文・証書などの文書)と歴史的事実から項目に分けて辿って
みよう。少々話が堅くなるかも知れないが平均的農民のバックグラウンドが時代によりどう変わっていったか
のちのちの理解の基礎ともなるので少し辛抱してお読みいただければ幸いである。
◆地主としての千造
@幕藩時代、土地は永代売買禁止であった。明治新政府は国家歳入の基盤となる
地租収入を確定させるため、土地所有を証明する地券を交付し地価を定め、
3%の地価税(金納)を課した。明治5、6年にわたって実施され、ふつう
地租改正という。因みに年度予算が始めて決定されたのは明治6年で歳入
4200万縁(うち地租3800万円)、歳出4093万円であった。
資本主義開明期とされる明治20年でもGNPの70%は農生産であった。
この数字は国家基盤がまだまだ農本であったことを示している。資本主義への
因子の一つ、土地商品化の第一歩である。なお、春日井地方では尾張藩領時代
に比べ、50%の増税となったところが多く、43ヶ村を代表して地租改正運動
の先頭に立った林金兵衛が全国的に有名だが、千造が関わったかどうかは判らない。
A明治14年の政変と松方デフレ(デフレは下級農民を直撃したので関係ないと
いわず読んで)、イギリス、フランスをモデルとして近代化を進めようとした
大隈、板垣が明治14年下野し国家モデルはプロシャに傾くが、この時期には
同時に初めて政党が結成され、圧倒的優勢を誇った。政府は押され気味で
危機感を抱く政党とは次の二つ、板垣→自由党(豪農層と結ぶ)と大隈→立憲
改新党(都市資本家と結ぶ)である。(余談ながらこの時伊藤博文は憲法起草
のためベルリンに滞在していたが、太政大臣三条実朝にあてた有名 な手紙を
書いている。いわく「死地に仏を発見せる思い。プロシャで武器(国家の骨格
となる憲法理念のこと)を手に入れた。もう党に負けぬ」・・・大隈の辞職に
よりインフレ政策は一転、松方大蔵卿によるデフレ政策となる。国家財政立て
直しの為の諸政策は民衆に大きな因苦を負わせるが数字で2、3の例を挙げると
★米一石の値段・明治9年→5円、明治14年→14円(3倍)、
明治17年→4円60銭(大暴落、当時の計算で一石作る経費は約5円とされ
ていて、この値段では作るほど損)、同様に繭、生糸も半値に下落
★自殺者数・・明治10年代と昭和1桁代とびぬけて多い。
★農民運動(一揆)多発・加波山事件、秩父困民党、飯田小作党
(いずれも明治17年、多数の刑死者を出す)など。さきに板垣自由党と地方
豪農層の結びつきを記したが、以後解消
★土地集積化・明治14年から19年までの松方デフレ下、
5年間に所有1町6反以下の自作農でも30%以上が小作に転落、もっと下
の階層ほど没落は激しく、その分の土地は大地主に集積されていく。
明治40年代ついに1370町歩を所有し越後一の大地主となった伊藤家の
遺構は、北方博物館として現在、観光客に公開されているが
地元では今なお伊藤家を快く思わない人がいる、と聞く。
さてこの時期、藤江家では僅かながら財産増があったようだ。寄生地主制成立頃の日付で10枚ほど残され
ている証文が当時を裏付けている。
同時期、円福寺もまた土地を抵当に20円貸し付けており、その文書が藤江家に残されたのは千造が能筆で
代書した為か。他にも千造代筆と明記した証文があるので筆跡から推察した次第
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